かまくらかがみ

鎌倉幕府の執権北条氏に関するデータと知見、個人的推論を趣味としてまとめたもの

霜月騒動

撫民、統治、非御家人御家人
政令否定
安達泰盛
蒙古襲来の脅威

 

御家人権益保護
政令推進
平頼綱

 

極楽寺重時の同母姉妹が土御門定通の妻
四条帝崩御に際し定通の後見であった後嵯峨帝が践祚
重時が撫民の提唱者?
重時と後嵯峨帝は九条道家の権勢排除で手を結ぶ
長時、時茂、義宗が次々早世、義政も引退
重時の娘婿の安達泰盛が撫民政策継承?

 

後嵯峨帝ー亀山帝の大覚寺統安達泰盛と同じ撫民、統治を志向
道家失脚で摂関の権威は弱まっていたが、後嵯峨帝崩御、伏見帝立太子後深草院復権に際して関白鷹司兼平が台頭

 

建治三年の政変
塩田義政隠遁
名越家に続いて極楽寺家にも打撃
その一年前、泰盛弟の安達時盛も失脚

 

二月騒動
後嵯峨帝崩御直後に発生
極楽寺家と関係の深い西園寺公基の一族が処罰
泰盛庶兄の関戸頼景失脚

 

大内平賀惟信の任国を受け継いだ小笠原長清の子、伴野時長の娘婿が安達泰盛
伴野庄に近接するのが塩田庄

 

1284年南方佐介時国、大仏家と結んだ平頼綱に討たれる
時国の叔母が長時正室足利頼氏正室であり時国は泰盛与党か
時国誅殺に際して足利家時自害

 

1287年惟康親王宣下は頼綱政権が亀山院政に干渉するため

 

霜月騒動で武蔵と上野の御家人の多くが滅亡
信濃の伴野氏も滅亡

 

比企氏の系譜は頼家と平賀氏に連なる
その守護は武蔵、上野、信濃、越後
頼朝時代は北条氏より大勢力
得宗勢力は霜月騒動時にも健在
再び立ち上がるのは新田義貞に率いられるとき
一方武蔵、相模、伊豆、駿河は北条氏が他氏排斥を繰り返して親得宗が多い
安達泰盛の北関東対平頼綱南関東

 

平禅門の乱霜月騒動より非常に小規模
頼綱滅亡は政治方針が対立する二派の抗争ではなく、御家人権益保護は騒動前後で変わることなく続いた
永仁の徳政令も幕府滅亡までの36年間続いた
御家人御家人になれず悪党として排除された
人々の不満とそれを抑え込む幕府権力強化の悪循環が幕府滅亡を導いた

 

霜月騒動再考」より