六波羅探題と寺社紛争
1203対延暦寺 後鳥羽院の命で 駿河守大内惟義 検非違使尉大岡時親 安達親長 佐々木定綱 佐々木経高 葛西清重 豊島朝経 1213延暦寺対清水寺 後鳥羽院の命で 大内惟信 後藤基清 五条有範 近江守源頼茂 中原親清 藤原秀能 源広業以下西面武士 1225園城寺内紛 南方時盛被官の本間左衛門ら 1226金峯山強訴 北方時氏被官の菅十郎左衛門ら 重時は1230〜1246の長期に渡り執権探題を務め、泰時からかなりの権限を授かっていたようで、幕府や南方時盛が関わらない中、主体的に紛争解決に関わった 1246延暦寺対鞍馬寺 後嵯峨院、大殿九条道家と摂政一条実経と申し合わせ、北方探題重時との間で連絡調整 1248興福寺内紛 後嵯峨院と北方長時が子細を調整して南都に長時被官の佐治重家と真木野茂綱を送る 1257対興福寺 後嵯峨院は関白鷹司兼平の合意のもと六波羅に指示、北方常盤時茂が鎮圧 1260園城寺対延暦寺 幕府が数百の武士を京に送り強訴を防いだ 1264対延暦寺 東使長井時秀、二階堂行綱を数百騎の軍勢とともに派遣 1277北方伊賀時村、南方佐介時国 六波羅制度改革 南北両探題在職通常化 訴訟裁判制度の確立 1279対石清水八幡宮 亀山院の指令で六波羅が鎮圧 1281石清水八幡宮対興福寺 亀山院が双方の主張を受け入れた行動を取り神木入洛 亀山院も関白鷹司兼平も六波羅も解決できず 東使佐々木氏信、長井時秀、佐藤業連が介入 1295大乗院対一乗院 後深草院、伏見天皇と協議して六波羅が警固 1319園城寺対延暦寺 後宇多院の指令で六波羅が鎮圧 鎌倉後期になると六波羅奉行人や評定衆が公家政権との調整、関東への報告、寺社との交渉など重要な任務を担っている 探題首班は姿を見せない 長時、時茂、義宗、時輔の時代は首班が若年のため極楽寺家被官、得宗庶子家被官を中心に探題が運営されていた 1277以降の若年首班は時国、兼時、久時、宗方、基時、仲時 時国を除きいずれも極楽寺家被官、得宗庶子家被官を中心に運営されていたと考えられる 時村と宗宣、維貞はいずれも30代以降の壮年で、評定衆や引付頭人を歴任してからの就任 盛房、貞房、範貞も評定衆、時範、時敦も引付衆から就任 得宗連枝、赤橋、普恩寺の3家は家格が高く、六波羅は昇進の最初のポスト 伊賀大仏常盤佐介は昇進が遅く引付頭人などの経歴を積むポストの一つ 元寇以降庶家の回り持ちとなり頻繁に交代 六波羅奉行人や評定衆が充実 探題首班は政治的能力や主導的意思を持つ必要がなくなった 寺社問題も六波羅奉行人や評定衆が前面に立ち、最終的な裁定を行う公家政権と幕府への情報伝達と意志の伝達、執行を行う機関となった ただ治天の君と幕府の意志が合致しない場合も多く、そこに寺社がつけ込み執拗に強訴を起こし、六波羅がその矛盾を一身に受け時には責任を押しつけられる機関となった