かまくらかがみ

鎌倉幕府の執権北条氏に関するデータと知見、個人的推論を趣味としてまとめたもの

2人の為時

北条六郎時定は時頼の同母弟
1244〜1256の間、40回登場
活動のほとんどは将軍の近習
時頼の同母弟が無官というのは異様
その後1274まで一切史料に登場せず失踪
1304の野津本北条系図によれば肥後国阿蘇郡に配流された
1256の時定終見の4ヶ月後に時頼出家、長時が執権に
この時時定が阿蘇に配流?時頼の後継は時定ではなく時宗を明示するため存在抹消
1274文永の役に呼応して時定が阿蘇から東上するとの噂
1277貞時元服時に時定から為時に改名。時定は貞時を転覆しかねる存在として時輔と同様警戒された。為は扶助の意味
1281弘安の役の後、肥後国守護となる

苅田時継
1228重時と苅田義季女の間に生まれる
1235廃嫡 疱瘡?精神?
後に為時と改名
十三人の子女

1272二月騒動の佐渡国配流
渋川義春 父渋川兼氏 母苅田為時女
兼氏の外祖父は名越朝時
つまり名越時章の姉妹が兼氏の母
名越氏の外戚世良田頼氏佐渡国配流
兼氏は斯波家氏の同母弟で、嫡流北条時氏女を母とする異母弟の足利頼氏
苅田為時の失踪も1256

1284北条時宗の逝去
佐介時国殺害、叔父時光佐渡国配流
北条時輔男子が徘徊の風聞
時輔と佐介氏浅からぬ関係?
足利家時自害
家時の父頼氏の妻に佐介時盛女、すなわち時国伯母、時光姉妹がいる
時盛は宝治合戦を起こした三浦氏の姻戚でもある
時輔の烏帽子親は足利頼氏

苅田為時の妻は常盤時茂女
妻の姉妹に、佐介時国妻、足利家時妻がいる
時国の謀反は物狂と記録されている
苅田為時の物狂も謀反の可能性